漢字教育士ひろりんの書斎日本語の本棚
2015.4.  掲載

 たんぱく質

 皆さんは「たんぱく質」という言葉を知っていますね。脂質、炭水化物と並んで三大栄養素と呼ばれるもののひとつです。「タンパク質」「たん白質」などとも書き表されますが、なぜ、「たん」の部分はかなで書くのでしょうか。漢字がないのでしょうか。
 違いますね。「たん」という漢字はあるのです。「蛋」と書きますが、あまり見たことはないでしょう。この漢字は、ほかにつかいみちがあまりないので、教科書や新聞で使える字(常用漢字)の中に入っていないため、ひらがなで書かれるのです。でも、「たん白質」という書き方は、ひらがなと漢字が入り混じっていて、変ですよね。また、「タンパク質」と書けば、「タンパク」というのは外国語かと思われそうですね。1)

 では、この「蛋」という字のほかのつかいみちを探してみましょう。今度、中華料理のお店に行ったときに、メニューをよく見てください。「皮蛋」というのがあると思います。中国語で、「ピータン」と読みます。もしよかったら注文してください。丸い、玉子のような、でも青黒くてゼリーみたいな、よくわからないものが出てきます。実はこれはアヒルの卵を石灰で加工した保存食なのです。珍味ですが、あなたがおいしいと思うかどうか保証は出来ません。

tamagosyoten.png(1373 byte)
「卵」小篆
 わかりましたか。実は、「蛋」というのは、卵のことだったのです。ではなぜ、「蛋」と 「卵」の二つの漢字があるのかというと、どうやら「卵」は象形文字で、魚のおなかに左右対称に入っている、卵のかたまりのことを表していたようです。左の図は中国の古い字書に載っている卵の古代文字ですが、タラコみたいに見えませんか?
 「蛋」の方の由来ははっきりしませんが、鶏やアヒルの卵をいうときに使われていたようです。
 というわけで、「たんぱく」というのは、卵の白身のことなのです。ご存知のとおり、鶏卵の白身はたんぱく質でできた食品の代表選手です。これで「たんぱく質」の名前と中身が一致しましたね。

 でも、なぞが解けたと喜んでばかりもいられません。ではなぜ「卵白質」と呼ばないのでしょうか。これなら、名前を見ただけで意味もわかりやすいし、「蛋」なんて難しい字を書く必要もないし、まして「たんぱく質」なんてかな混じりの言葉にする必要もないのに。
 さっき言ったとおり、鶏の卵を表すのは、本来「蛋」のほうがふさわしいのですが、魚もカエルも虫も鳥も、今ではみんな「卵」を使います。そればかりか、ヒトでも「卵子」なんて言いますね。そう思えば、やはり「卵白質」のほうがわかりやすくて良いと思います。もっとも、「卵」では何のタマゴか分からない、魚や虫のタマゴに白身があるのか、などという反論もあるかもしれませんが。

 「蛋白質」は、幕末から明治にかけて、西洋文明に追いつくためにたくさん作られた新しい言葉の一つなのです。
 実はこの言葉を作った人のことが、「日本の化学の開拓者たち」(芝哲夫著、裳華房 2006年)という本に書かれています。それによると、作ったのは蘭学者の川本幸民という人で、オランダ語の eiwit (ei=卵、wit=白)を翻訳した言葉だといいます。また、なぜ「卵白」としなかったかというと、「『卵』は象形文字で男性の性器を表す意味があることを幸民は知ってい」たからだと書いてありますが、そんな説は中国の古い辞書にも載っておらず、字もどう見てもおちんちんには見えません。幸民さんの勘違いなのかもしれません。だったらなおさら、今からでも「卵白質」に名前を変えてはどうでしょうか。

 はじめに書いた三大栄養素の一つ、「脂質」という言葉は、私が中学生のころは「脂肪」と習いました。化学的な定義は、脂肪と脂質では少し違うようですが、今の小学生は栄養素の名前としては「脂質」と習っています(「小学校学習指導要領解説 家庭編」文部科学省、平成20年6月。ついでに言うと、今は「三大栄養素」ではなく、無機質とビタミンを加えて「五大栄養素」と言うようですね。知りませんでした)。
 この「肪」の字は、この言葉以外ではほとんど使うことはありません。意味も「脂」と同じようなものです。だからわざわざ「肪」の字を使う必要もないので、脂質と言い換えたのかもしれません。
 漢字で新しい言葉をつくるときは、2文字だと落ち着いてしっくりくるということで、似たような意味の漢字を2文字続けた言葉がたくさん作られました。その中には、「福祉」の「祉」、「皮膚」の「膚」など、ほかの言葉ではほとんど使わない漢字も多いのです。でも、肪も祉も膚も、2136字しかない常用漢字の中に入っています。これらの言葉を別のものに言い換えることは、常用漢字の節約にも役立つのです。

 難しい漢字を使った言葉は、生物学や医学などの自然科学の分野、法学や経済学など社会科学の分野で、明治の文明開化の時代に作られた学術用の言葉に多く見かけられます。しかし、それから100年以上がたち、現代もIT関係など新しい言葉が次から次へと登場する時代です。この際、古い学術用語を見直して、誰にもわかりやすく書きやすい言葉にしていく努力が必要なのではないでしょうか。2)
 そうでないと、たんぱく質より「プロテイン」のほうがいいなどと、日本語にあいそをつかす人が増えてくるでしょうから。


注1) 同じように、炭水化物の代表選手である「でんぷん」もひらがなで書かれますが、漢字では「澱粉」と書きます。「澱」は「沈澱」(ちんでん)の澱で、訓読みでは「おり」と読み、水に溶けずに沈むものをあらわします。皆さんも実験したかもしれませんが、ジャガイモなどをすりつぶして水の中でガーゼで濾し、かき回したあと水の底に沈んできた粉がまさに「澱粉」なのです。
 このように、昔、言葉を作ったときには、正確にそのものをあらわそうと頭をひねって考えられたものでも、今では、使われる漢字が制限され、ひらがなで書かれるために意味が分かりにくくなってしまったものがあります。
 なお、「沈澱」という言葉は、現在はふつう「沈殿」と書きます。これは、「澱」という字が常用漢字にないため、さんずい偏を省いた字に置き換えたものです(1956年の国語審議会報告「同音の漢字による書きかえ」に記載されています)。でも、「御殿(ごてん)」というように、「殿」は立派な建物を表す字なので、「沈殿」では「水中に沈んだ古代の宮殿」のことかと思ってしまいますね。また、澱を殿に置き換えるなら、なぜでんぷんは「殿粉」とならないのか、不思議です。     戻る

注2) 民法という法律に「瑕疵(かし)」という言葉が使われています。「きず」や「欠点」という意味ですが、言葉としても漢字としても難しいものなので、もっと分かりやすい言葉に替えることが検討されているようです(法務省「民法(債権関係)の改正に関する要綱仮案」2014年8月 など参照)。
 法律にはほかにも、難しい(=普通の人が聞いたことがないような)言葉がたくさん使われています。普通の国民が法律を読んでも理解できないようでは、民主国家とは言えないと思いますので、こうした見直しはどんどんやってほしいと思います。      戻る



画像引用元

小篆  漢字古今字資料庫(台湾・中央研究院ウェブサイト)